めぐり、ひとひら。 攻略
- ブランド:キャラメルBOX
- パッチ:なし
- コメント:「めぐり、ひとひら。」のノーマル ENDの後日談が「おまけ」「開発者座敷牢」「朱門優」から見ることができます。
めぐり、ひとひら。 攻略
結乃由姫命
- 「ならば、ひざまずくが良い。頭が高いぞ、愚民」
由は踏ん反り返りながら、ふん、と高飛車にそう言った。 - ――だから。
こまがここに居てくれるなら、僕もまたここに居る。 - ……そうだ。
綺麗好きなこまは、掃除が好きだったっけ……。 - 「あ、そうじゃ」
「え?」
こまの後ろをふわふわと飛んでいた由が、振り向いて僕に尋ねた。 - 「……一人で屋敷の掃除でもしておるのかのぅ。とんでもない事になっておらなければ良いが」
- 「ほほう……なかなかではないか」
そう言っていた由の表情には、喜びと同時に少し陰りが見えたように思えた。 - ――その時、鈴の音が響いた。
- 「えっ……由ちゃんて、鬼さんなの?」
「阿呆かっ。こんなに愛くるしい鬼が何処におるっ!?」 - 「わあ……由ちゃん、物知りなんだね」
こまは素直に感心しているようだ。 - 「どうしてですの? お兄様」
「……それは、だから……」
こりすはじっと僕を見つめていた。 - 「……いや、何でもないんだ」
- 「あっ、お兄ちゃん。ここにいたんだね」
その時、こまが嬉しそうに走ってきた。 - 「あ、あれっ? でも、お兄ちゃん聞いてない? 由ちゃんが教えに行ってくれるって言うから、こま……」
- 咄嗟だった。
僕は後退り、そして慌てて横合いに身を投げた。 - 「やっ……」
――あの日。
恐らくは、僕の時間が止まってしまった日。 - 「……こりす」
僕は呆気に取られたまま、傍にいたこりすに問いかけた。 - 「……なんでまた?」
とは僕も訊かなかったし、こりすも言う必要がなかったのだろう。 - 「ふふっ……こまさんは面白いですわね」
そんなこまの様子を、微笑ましそうにこりすが見やった。 - 「ねえ、由。一つ気になるんだけど」
「なんじゃ?」
「どうして由がやらないんだい? 女神なんじゃ?」 - 「でも……由。あれはいったい何だったんだい?」
前を行く由に問いかけた。 - 僕は、立っているのに何故か重い腰を上げる感覚で、二人の方へと向かった。
- 「そっ……その、君は……」
「うふふ~、千草でいいですよ」 - 「こま、こんなところで待っておっても仕方なかろう。もう屋敷に入るのじゃ」
由は暇を持て余している様子だった。 - 「今、千草さんはどちらに?」
こりすは僕の気持ちを知ってか知らずか、気持ちを切り替えるように微笑んだ。 - 「……ど、どこかお出かけ?」
「う、うん……。ちょっと……ね」 - 「ま、そう落ち込むなよ。いつかは見つかるかもしれねーじゃん? そう焦んなくてもさ」
翁は慰めるようにそう言った。 - (……こま……)
青く澄んだキャンバスに、彼女の顔が浮かぶ。 - 「……あのですね、さっきから気になってたんですけど」
言いながら、千草さんは食い入るようにじっと僕を見つめている。 - 「お、お兄ちゃん……」
そこへ、少し遅れてこまがやってきた。 - ぽんぽん、と僕は彼の肩を叩いて、そのまま無言で退出した。
- ――素朴な疑問なんだけど。
「……由って、神様なんだよね?」 - 「やってみよう? 由ちゃん。こま、頑張るから」
すると、今度はこまが由を勇気付けるように、笑顔を見せた。 - 邪魔をするのも悪いと思い、僕はしばらく立ち尽くしていた。
由は一向に、僕に気付く様子もない。 - 「ほほーう。良い匂いじゃのー」
そこへ匂いに誘われたかのように、本殿に残っていた由がぱたぱたとやって来た。 - 「もう解決した問題なら、そんなに気にしなくても大丈夫なんじゃないかな?」
「……けど……」 - 誰が言い出したのか。
ちょっとだけ苦笑してしまうけど、今ではこの神社を訪れてくる人たちに、こまは『こまさま』と呼ばれている。 - 僕はとりあえず、右側の引き出しから服を取り出した。
僅かに差し込む月明かりの下で見てみると、それは…………。 - 「……それにしても、随分と遅いですわね。あの方」
僕がみんなに説明をしている間、彼女はあの部屋で着替えをしているはずだった。 - 「あ……た、多分、他人の空似じゃないかな。人違いだよ」
上手いフォローも思いつかず、僕はそう言った。 - 「さて。わらわも次の御祓いに備えて、少し休むとしようかの。むふふ。むふふ。むふふふふ……」
- 「よう」
「……やあ……」
僕は肩で息をしたまま、玄関の扉を開いた。 - 「いや、違う違う。僕らは……その、勝手にここに住み着いてるんで……」
「ああ。だから?」
翁はきょとんとした顔をする。 - 「紫縁祭……」
――僕の背後から届いた、歌うように涼やかな声。 - 「時間を間違えてるのかもしれないね。僕、ちょっと呼びに行ってくるよ」
千草さんの様子が見ていられなくて、僕はそう言って立ち上がった。 - 「……でも、まいったな……とにかく、謝ってくるよ」
- (……あれ?)
――ふと気付くと、扉の隙間からこちらを覗いている鏡架さんの姿があった。 - その日は、そんな風にして夜が更けていった。
- 僕はこまの部屋へと向かった。
もうじき御祓いの予約が入ってる時間になるから、今は自分の部屋で用意をしている筈だ。 - 「……ごめんね? お兄ちゃん」
「え?」 - 色々と、考えることが沢山あって――
僕はそのまま、部屋を出て行った。 - 千草さんみたいに、壁抜けが出来ればいいんだけど。
「お呼びですか~?」
「わっ」 - 「む? なんじゃ愚民、いたのか。まさかお主までも、巫女舞いに挑戦、などと言い出す訳ではあるまいな?」
- 「……や、やー!」
――突然、こまは大声を上げたかと思うと、千草さんのお盆に向かって両手を向けた。 - 「なんじゃあやつは。愛想のない……」
「きょ、鏡架さん、きっと照れ屋さんなんだよ。悪気があってやってる訳じゃないよ」 - 「でも、幾らなんでも。本人達を無視して、そんな勝手な事をするなんて」
考えつつ、僕はそんな言葉を述べた。 - 「前から思ってたんだけどさ。親父さん、どうもこりすが僕との婚約を望んでるって、勘違いしてるんじゃないかな?」
- 僕はそのまま、しばらく千草さんの様子を見ていた。
彼女は張り切って掃除している。 - 「いや、その服は……」
「……あ、あのね。最近、あんまり着れなかったから……」
そう言って、彼女はうつむいた。 - 「じゃあ、案内してくれてありがとう、こま。ちょっと行ってくるよ」
そう言って、僕は町へと向かった。 - 「あれ? でもお兄ちゃん、千草さんの画を描いてなかった……? まだ、確か途中で……」
- 「……わかってるんだ。こまに逢わせてくれたのは、由なのに。悪気があってやったんじゃないって。ただ、少しカッとなっちゃって……」
- 「……お、おほんっ。その、あー、なんじゃ」
由は急に咳払いをして、少し緊張した面持ちを見せた。 - 「いや。だから、あの御神体は由に似てないのかと思って」
「む?」 - 何か思いつめたような表情をして、こりすは水面を見つめていた。
- 「むう……」
由はきょろきょろと辺りを見回していた。
「――どなたかお捜しですの?」 - 「そういえば、どこかお主に似てたの」
と、由は思い出したように笑った。 - 「巫女舞って確か……天鈿女命の歌舞が起源でしたわね」
「天鈿女命?」 - 「で……こまちゃんの調子、どう?」
翁は遠慮がちに尋ねた。 - ――今日ばかりは部屋の主も戻っては来ないであろう、ゆかり神社の本殿。
祭りに集まった多くの人々の中央、開くはずのない扉の向こうに人影があった。 - (……やっぱり、自信がなくなってきた)
「あ……あの、お兄様?」 - 僕は一度玄関の中に戻り、傘立てから傘を取り出すと、すぐに鏡架さんの後を追った。
- 「いっ、いや! いいよ。僕が行くからっ!」
僕は慌てて立ち上がり、素早く襖を開いた。 - 「……昔は、よく……お兄ちゃんが冷ましてくれたね」
「え?」 - それから大きく深呼吸して、僕は居間へと向かった。
- 僕は隣の由に問いかけた。
- 「どうせ、部屋に篭って悪巧みをしているに決まっておる。ほっとけほっとけ」と、口の中いっぱいにこりすの分を詰め込んで言っているのは、由。
- 僕は、こまへと駆け寄った。
飛び出していったこりすの事が、気にならなかった訳じゃないけど……。 - 「こまさんは怒って下さらないから。何でも受け入れて……微笑んでしまうから」
- 「…………」
僕は、何かを言おうと思って……けれど、何も思いつかずに口をつぐんだ。 - 言わなくちゃいけない事もあるだろうに。
僕はただ、口をつぐんだままで。 - 「ほりゃ!」
「わっ!」
――目の前に、突然、黒い塊がぶつかった。 - 「……その。結婚式の……事なんですけれど……」
言い出しにくそうに、こりすが呟いた。 - 「いや……やっぱり僕は。うん。後ででいいから」
- 「……由、ごめん」
「えっ?」
僕の言葉に、由は殊の外驚いた顔を見せた。 - 「でも、由……どうして嘘なんか?」
「……そ、それは……」
由は僕から視線を逸らした。 - 「……御祓い」
こりすはそう言って、大麻を振った。 - 「あれ? 由……」
屋敷に戻ると、さきほど僕と交代した筈の由が、縁側に浮かんで外の様子を見つめていた。 - 「こっ、こまが目覚めたじゃとっ!?」
その時――慌てて部屋に飛び込んで来たのは、由だった。 - 「ならば、尚の事赦せん。こまの信頼を踏み躙りおって……次に相まみえた時こそ、決着をつけてやろうぞ」
- 「じゃあ、こまは……僕が鏡架さんを連れてきたせいで……?」
「お兄様……」 - 「…………」
思うところはあったけど。
こまは、そういう人だから。 - 「…………」
再び、お腹の音が鳴り響いた。 - 「……はいはい。まあいいですわ。じゃあおチビちゃん。アナタがよそって差し上げなさいな。そして、すぐにこまさんの許へお戻りなさい」
- 「だ、ダメっ」
――唐突だった。
こまはこりすを庇うかのように、彼女と男達との間に入った。 - 「よし。守りは任せるのじゃ」
「……守り?」 - 「……何じゃ。懐かしい感じじゃの」
ぽつりと、由がそう言った。 - 「このお屋敷、どなたがお使いになられていたと思われます?」
- 「あっ……こま、行くね」
こまは急に、気を利かせたように襖へと向かった。 - 「……お兄ちゃんは……それでいいの?」
こまが遠慮がちに、僕に尋ねた。 - 優しく、僕の手を握り締めるこまを感じた。
- 「ん……でも、やっぱり僕らにとって、由は由だよ」
「愚民……」 - こまの服装は、巫女装束に戻っていた。
病み上がりという事で大事を取って、やっぱりこまの御祓いはしばらくお休みにさせて貰っていたけれど……。 - 「……離れるって言っても、少しの間だけだもんね?」
僕は無理矢理、笑顔を作ってみせた。 - 「さー。メシじゃメシじゃー」
「あっ……ゆ、由」
次に食卓に顔を見せたのは、由だった。 - 「――あら。遂にアナタまで参戦ですの?」
「なっ、なんじゃお主っ! いつからおったっ!」 - 「それとも、僕の個展の話が出たから? 急に、そんな話になっちゃったから……?」
- その前に、庇うように由が立ち塞がった。
- 「僕にきた、個展の話……君は正直、どう思った?」
「…………」
「正直にでいいんだ。頼むよ」 - 「……行ってらっしゃい。お兄様」
その笑顔に涙が浮かんでいるって、わかっていた。 - 「……明日。必ず、見送るから」
「うん、ありがとう」
「……戻るよ。おやすみ、こま」 - 「おお、どうじゃ?」
由もまた、本殿に様子を身にやって来た。 - 「あの……どうもはじめまして。結乃由姫命様」
こまに向かって自己紹介しているようで、妙な気分ではあった。 - 「こまだった頃の事、覚えて……」
紫姫は皆まで言わずとも、といった様子でゆっくりとうなずいた。 - ――唐突に、僕は一つ思いついた。
「な……なんじゃ。にやにやしおって、気持ち悪いのう」 - 「……あの娘と一緒にいてくれた事、感謝しとる」
「由……の事ですか?」
僕の問いに、彼女はうなずいた。 - 「こまの顔で……そんな事を、しない……で」
- 「ああ……ありがとう」
僕はこりすにお礼を言って、汗の染み込んだ服を着替えた。 - ……とても、柔らかい感触だった。
……どうしてだろう。
どうして……由を抱き締めてるんだろう。 - 「くっ……!」
その真摯な瞳が、彼女の意思を伝えていた。
僕は駆け出した。 - 「自分の事、嫌いにならないで……お兄ちゃん」
耳の奥に、そっと囁かれるように優しい声が流れ込んでくる。
結乃由姫命 END
咒吠君鏡架(水蓮)
- 「ならば良い。主従の関係は、はっきりとさせねばいかんからの」
そう言って、由は納得したかのように、うんうんとうなずいた。 - ――だから。
こまがここに居てくれるなら、僕もまたここに居る。 - ……そうだ。
綺麗好きなこまは、掃除が好きだったっけ……。 - 「あ、そうじゃ」
「え?」
こまの後ろをふわふわと飛んでいた由が、振り向いて僕に尋ねた。 - 「……一人で屋敷の掃除でもしておるのかのぅ。とんでもない事になっておらなければ良いが」
- 「ほほう……なかなかではないか」
そう言っていた由の表情には、喜びと同時に少し陰りが見えたように思えた。 - ――その時、鈴の音が響いた。
- 「“鬼”とは、この国においては角を生やした怪物を指すが、大陸では……そうじゃの、この国で言う“幽霊”に当たる存在じゃ」
- 「わあ……由ちゃん、物知りなんだね」
こまは素直に感心しているようだ。 - 「どうしてですの? お兄様」
「……それは、だから……」
こりすはじっと僕を見つめていた。 - 「……いや、何でもないんだ」
- 「あっ、お兄ちゃん。ここにいたんだね」
その時、こまが嬉しそうに走ってきた。 - 「あ、あれっ? でも、お兄ちゃん聞いてない? 由ちゃんが教えに行ってくれるって言うから、こま……」
- 咄嗟だった。
僕は後退り、そして慌てて横合いに身を投げた。 - 「やっ……」
――あの日。
恐らくは、僕の時間が止まってしまった日。 - 「……こりす」
僕は呆気に取られたまま、傍にいたこりすに問いかけた。 - 「……なんでまた?」
とは僕も訊かなかったし、こりすも言う必要がなかったのだろう。 - 「ふふっ……こまさんは面白いですわね」
そんなこまの様子を、微笑ましそうにこりすが見やった。 - 「ねえ、由。一つ気になるんだけど」
「なんじゃ?」
「どうして由がやらないんだい? 女神なんじゃ?」 - 「でも……由。あれはいったい何だったんだい?」
前を行く由に問いかけた。 - 僕は、立っているのに何故か重い腰を上げる感覚で、二人の方へと向かった。
- 「そっ……その、君は……」
「うふふ~、千草でいいですよ」 - 「こま、こんなところで待っておっても仕方なかろう。もう屋敷に入るのじゃ」
由は暇を持て余している様子だった。 - 「今、千草さんはどちらに?」
こりすは僕の気持ちを知ってか知らずか、気持ちを切り替えるように微笑んだ。 - 「……ど、どこかお出かけ?」
「う、うん……。ちょっと……ね」 - 「ま、そう落ち込むなよ。いつかは見つかるかもしれねーじゃん? そう焦んなくてもさ」
翁は慰めるようにそう言った。 - (……こま……)
青く澄んだキャンバスに、彼女の顔が浮かぶ。 - 「……あのですね、さっきから気になってたんですけど」
言いながら、千草さんは食い入るようにじっと僕を見つめている。 - 「お、お兄ちゃん……」
そこへ、少し遅れてこまがやってきた。 - ぽんぽん、と僕は彼の肩を叩いて、そのまま無言で退出した。
- 「その大麻を振ってみるだけでも、効果はあるんじゃないのかな? 清めの道具なんだから、それ」
ふと思い付き、僕は提案した。 - 「やってみよう? 由ちゃん。こま、頑張るから」
すると、今度はこまが由を勇気付けるように、笑顔を見せた。 - 「今更、本殿に物を置くのが不謹慎だ……何て言わないよね?」
「ん? お、おお……愚民ではないかや。驚かすでない」 - 「ほほーう。良い匂いじゃのー」
そこへ匂いに誘われたかのように、本殿に残っていた由がぱたぱたとやって来た。 - 「もう解決した問題なら、そんなに気にしなくても大丈夫なんじゃないかな?」
「……けど……」 - 誰が言い出したのか。
ちょっとだけ苦笑してしまうけど、今ではこの神社を訪れてくる人たちに、こまは『こまさま』と呼ばれている。 - 僕はとりあえず、右側の引き出しから服を取り出した。
僅かに差し込む月明かりの下で見てみると、それは…………。 - 「……それにしても、随分と遅いですわね。あの方」
僕がみんなに説明をしている間、彼女はあの部屋で着替えをしているはずだった。 - 「あ……た、多分、他人の空似じゃないかな。人違いだよ」
上手いフォローも思いつかず、僕はそう言った。 - 「確かに古いとは思ってたけど……そんなに昔からって考えると、この屋敷、逆に綺麗な形で残り過ぎてるんじゃ……」
- 「おっと……」
と――
角から足音もなく出て来た鏡架さんと、ぶつかりそうになった。 - 「いや、違う違う。僕らは……その、勝手にここに住み着いてるんで……」
「ああ。だから?」
翁はきょとんとした顔をする。 - 「…………」
「あっ、鏡架さん」
そこへ鏡架さんがやって来た。 - 「時間を間違えてるのかもしれないね。僕、ちょっと呼びに行ってくるよ」
千草さんの様子が見ていられなくて、僕はそう言って立ち上がった。 - 「……でも、まいったな……とにかく、謝ってくるよ」
- (……あれ?)
――ふと気付くと、扉の隙間からこちらを覗いている鏡架さんの姿があった。 - その日は、そんな風にして夜が更けていった。
- 僕はこまの部屋へと向かった。
もうじき御祓いの予約が入ってる時間になるから、今は自分の部屋で用意をしている筈だ。 - 「……ごめんね? お兄ちゃん」
「え?」 - 色々と、考えることが沢山あって――
僕はそのまま、部屋を出て行った。 - 千草さんみたいに、壁抜けが出来ればいいんだけど。
「お呼びですか~?」
「わっ」 - 「む? なんじゃ愚民、いたのか。まさかお主までも、巫女舞いに挑戦、などと言い出す訳ではあるまいな?」
- 「……や、やー!」
――突然、こまは大声を上げたかと思うと、千草さんのお盆に向かって両手を向けた。 - 僕は少し気になって、鏡架さんの後を追った。
「でも、幾らなんでも。本人達を無視して、そんな勝手な事をするなんて」
考えつつ、僕はそんな言葉を述べた。 - 「前から思ってたんだけどさ。親父さん、どうもこりすが僕との婚約を望んでるって、勘違いしてるんじゃないかな?」
- 僕はそのまま、しばらく千草さんの様子を見ていた。
彼女は張り切って掃除している。 - 「いや、その服は……」
「……あ、あのね。最近、あんまり着れなかったから……」
そう言って、彼女はうつむいた。 - 「じゃあ、案内してくれてありがとう、こま。ちょっと行ってくるよ」
そう言って、僕は町へと向かった。 - 「あれ? でもお兄ちゃん、千草さんの画を描いてなかった……? まだ、確か途中で……」
- 「……わかってるんだ。こまに逢わせてくれらのは、由なのに。悪気があってやったんじゃないって。ただ、少しカッとなっちゃって……」
- 「御神体、か……」
胸の奥から零れ出てくるような思いで、僕はその言葉を口にした。 - 「あ、いや。誰が置いていったのかもわからないものを御神体にするなんて、随分と思い切った事をするんだな、って思って」
何か思いつめたような表情をして、こりすは水面を見つめていた。 - 「むう……」
由はきょろきょろと辺りを見回していた。
「――どなたかお捜しですの?」 - でも――何でだろう。
あの時、一瞬だけ、鍛冶場の前で眩暈を覚えた時。
脳裏を掠めた影があったんだ。 - 「……19回目」
「え?」 - 「で……こまちゃんの調子、どう?」
翁は遠慮がちに尋ねた。 - 夜になるにつれて、酔いが回って来た者達もいるのだろう。
開かれた境内は、昼間とはまた違う喧騒に包まれていた。 - (……やっぱり、自信がなくなってきた)
「あ……あの、お兄様?」 - 僕は一度玄関の中に戻り、傘立てから傘を取り出すと、すぐに鏡架さんの後を追った。
- 「いっ、いや! いいよ。僕が行くからっ!」
僕は慌てて立ち上がり、素早く襖を開いた。 - 「……昔は、よく……お兄ちゃんが冷ましてくれたね」
「え?」 - それから大きく深呼吸して、僕は居間へと向かった。
- 僕は隣の由に問いかけた。
- 「どうせ、部屋に篭って悪巧みをしているに決まっておる。ほっとけほっとけ」と、口の中いっぱいにこりすの分を詰め込んで言っているのは、由。
- 僕は、こまへと駆け寄った。
飛び出していったこりすの事が、気にならなかった訳じゃないけど……。 - 「こまさんは怒って下さらないから。何でも受け入れて……微笑んでしまうから」
- 「…………」
僕は、何かを言おうと思って……けれど、何も思いつかずに口をつぐんだ。 - 言わなくちゃいけない事もあるだろうに。
僕はただ、口をつぐんだままで。 - (……あれ)
ふと目に止まったのは、床に乱雑に投げ捨てられていた一冊のスケッチブック。 - 「……その。結婚式の……事なんですけれど……」
言い出しにくそうに、こりすが呟いた。 - 「いや……やっぱり僕は。うん。後ででいいから」
- 「……あのさ、由。主って……」
「…………」
「……由……」 - 「でも、由……どうして嘘なんか?」
「……そ、それは……」
由は僕から視線を逸らした。 - 「……御祓い」
こりすはそう言って、大麻を振った。 - (目を覚まして、こまさん)
こりすは何度もそう呟いていた。 - 「……あれ……? こりすさん……は……?」
段々と意識がはっきりとしてきたようだ。
こまはゆっくりと、辺りを見回した。 - 「……お兄様?」
こりすは心配そうに、僕の顔を覗き込んでいた。 - 「それって、付喪神とか……そういう事ですの?」
眉をひそめて、こりすが尋ねた。 - 「…………」
思うところはあったけど。
こまは、そういう人だから。 - 「…………」
再び、お腹の音が鳴り響いた。 - 「千草さん……その、ありがとう」
何と言っていいかわからなかったが、僕は取り敢えずお礼を言った。 - 「だ、ダメっ」
――唐突だった。
こまはこりすを庇うかのように、彼女と男達との間に入った。 - 「よし。守りは任せるのじゃ」
「……守り?」 - 「……何じゃ。懐かしい感じじゃの」
ぽつりと、由がそう言った。 - 「このお屋敷、どなたがお使いになられていたと思われます?」
- 「あっ……こま、行くね」
こまは急に、気を利かせたように襖へと向かった。 - 「……お兄ちゃんは……それでいいの?」
こまが遠慮がちに、僕に尋ねた。 - 優しく、僕の手を握り締めるこまを感じた。
- 「他に呼び方はないかな?」
僕はそう尋ねた。 - こまの服装は、巫女装束に戻っていた。
病み上がりという事で大事を取って、やっぱりこまの御祓いはしばらくお休みにさせて貰っていたけれど……。 - 「……離れるって言っても、少しの間だけだもんね?」
僕は無理矢理、笑顔を作ってみせた。 - 「知ってますよ~。とっても可愛らしい女神様です~」
すると彼女は、笑顔でそう答えた。 - 「じゃあ、まだお料理があるので運んできますね~。ちょっとだけ待っててくださ~い」
- 「それとも、僕の個展の話が出たから? 急に、そんな話になっちゃったから……?」
- 居間へやってきた僕を出迎えてくれたのは……こまだった。
「あっ……! お、お兄ちゃん……!」 - 「あれ……由は、どうしたんだい?」
何とか平静を保とうと、僕は尋ねた。 - やっぱりそうだ――鏡架さんの視線の先にいるのは、こまだった。
- 「僕にきた、個展の話……君は正直、どう思った?」
「…………」
「正直にでいいんだ。頼むよ」 - 「……行ってらっしゃい。お兄様」
その笑顔に涙が浮かんでいるって、わかっていた。 - 「……明日。必ず、見送るから」
「うん、ありがとう」
「……戻るよ。おやすみ、こま」 - 「……はは。もしかしたら、ずっと目が覚めなかったりして」
- 「あの……どうもはじめまして。結乃由姫命様」
こまに向かって自己紹介しているようで、妙な気分ではあった。 - 「こまだった頃の事、覚えて……」
紫姫は皆まで言わずとも、といった様子でゆっくりとうなずいた。 - 「何か、思い当たる事でもあるのかい?」
- 「……あの娘と一緒にいてくれた事、感謝しとる」
「由……の事ですか?」
僕の問いに、彼女はうなずいた。 - 「こまの顔で……そんな事を、しない……で」
- 「ああ……ありがとう」
僕はこりすにお礼を言って、汗の染み込んだ服を着替えた。 - 彼女の言葉が、終わるか終わらないかの辺りで――
僕は、彼女の腕を掴んでいた。 - 「……やるさ。それで君が助かるんなら……僕はやる」
咒吠君鏡架(水蓮) END
ノーマル
- 「ならば良い。主従の関係は、はっきりとさせねばいかんからの」
そう言って、由は納得したかのように、うんうんとうなずいた。 - ――だから。
こまがここに居てくれるなら、僕もまたここに居る。 - ……そうだ。
綺麗好きなこまは、掃除が好きだったっけ……。 - 「あ、そうじゃ」
「え?」
こまの後ろをふわふわと飛んでいた由が、振り向いて僕に尋ねた。 - 「……一人で屋敷の掃除でもしておるのかのぅ。とんでもない事になっておらなければ良いが」
- 「ほほう……なかなかではないか」
そう言っていた由の表情には、喜びと同時に少し陰りが見えたように思えた。 - ――その時、鈴の音が響いた。
- 「“鬼”とは、この国においては角を生やした怪物を指すが、大陸では……そうじゃの、この国で言う“幽霊”に当たる存在じゃ」
- 「わあ……由ちゃん、物知りなんだね」
こまは素直に感心しているようだ。 - 「どうしてですの? お兄様」
「……それは、だから……」
こりすはじっと僕を見つめていた。 - 「……いや、何でもないんだ」
- 「あっ、お兄ちゃん。ここにいたんだね」
その時、こまが嬉しそうに走ってきた。 - 「あ、あれっ? でも、お兄ちゃん聞いてない? 由ちゃんが教えに行ってくれるって言うから、こま……」
- 咄嗟だった。
僕は後退り、そして慌てて横合いに身を投げた。 - 「やっ……」
――あの日。
恐らくは、僕の時間が止まってしまった日。 - 「……こりす」
僕は呆気に取られたまま、傍にいたこりすに問いかけた。 - 「……なんでまた?」
とは僕も訊かなかったし、こりすも言う必要がなかったのだろう。 - 「ふふっ……こまさんは面白いですわね」
そんなこまの様子を、微笑ましそうにこりすが見やった。 - 「ねえ、由。一つ気になるんだけど」
「なんじゃ?」
「どうして由がやらないんだい? 女神なんじゃ?」 - 「でも……由。あれはいったい何だったんだい?」
前を行く由に問いかけた。 - 僕は、立っているのに何故か重い腰を上げる感覚で、二人の方へと向かった。
- 「そっ……その、君は……」
「うふふ~、千草でいいですよ」 - 「こま、こんなところで待っておっても仕方なかろう。もう屋敷に入るのじゃ」
由は暇を持て余している様子だった。 - 「今、千草さんはどちらに?」
こりすは僕の気持ちを知ってか知らずか、気持ちを切り替えるように微笑んだ。 - 「……ど、どこかお出かけ?」
「う、うん……。ちょっと……ね」 - 「ま、そう落ち込むなよ。いつかは見つかるかもしれねーじゃん? そう焦んなくてもさ」
翁は慰めるようにそう言った。 - (……こま……)
青く澄んだキャンバスに、彼女の顔が浮かぶ。 - 「……あのですね、さっきから気になってたんですけど」
言いながら、千草さんは食い入るようにじっと僕を見つめている。 - 「お、お兄ちゃん……」
そこへ、少し遅れてこまがやってきた。 - ぽんぽん、と僕は彼の肩を叩いて、そのまま無言で退出した。
- 「その大麻を振ってみるだけでも、効果はあるんじゃないのかな? 清めの道具なんだから、それ」
ふと思い付き、僕は提案した。 - 「やってみよう? 由ちゃん。こま、頑張るから」
すると、今度はこまが由を勇気付けるように、笑顔を見せた。 - 「今更、本殿に物を置くのが不謹慎だ……何て言わないよね?」
「ん? お、おお……愚民ではないかや。驚かすでない」 - 「ほほーう。良い匂いじゃのー」
そこへ匂いに誘われたかのように、本殿に残っていた由がぱたぱたとやって来た。 - 「もう解決した問題なら、そんなに気にしなくても大丈夫なんじゃないかな?」
「……けど……」 - 誰が言い出したのか。
ちょっとだけ苦笑してしまうけど、今ではこの神社を訪れてくる人たちに、こまは『こまさま』と呼ばれている。 - 僕はとりあえず、右側の引き出しから服を取り出した。
僅かに差し込む月明かりの下で見てみると、それは…………。 - 「……それにしても、随分と遅いですわね。あの方」
僕がみんなに説明をしている間、彼女はあの部屋で着替えをしているはずだった。 - 「あ……た、多分、他人の空似じゃないかな。人違いだよ」
上手いフォローも思いつかず、僕はそう言った。 - 「確かに古いとは思ってたけど……そんなに昔からって考えると、この屋敷、逆に綺麗な形で残り過ぎてるんじゃ……」
- 「おっと……」
と――
角から足音もなく出て来た鏡架さんと、ぶつかりそうになった。 - 「いや、違う違う。僕らは……その、勝手にここに住み着いてるんで……」
「ああ。だから?」
翁はきょとんとした顔をする。 - 「…………」
「あっ、鏡架さん」
そこへ鏡架さんがやって来た。 - 「時間を間違えてるのかもしれないね。僕、ちょっと呼びに行ってくるよ」
千草さんの様子が見ていられなくて、僕はそう言って立ち上がった。 - 「……でも、まいったな……とにかく、謝ってくるよ」
- (……あれ?)
――ふと気付くと、扉の隙間からこちらを覗いている鏡架さんの姿があった。 - その日は、そんな風にして夜が更けていった。
- 僕はこまの部屋へと向かった。
もうじき御祓いの予約が入ってる時間になるから、今は自分の部屋で用意をしている筈だ。 - 「……ごめんね? お兄ちゃん」
「え?」 - 色々と、考えることが沢山あって――
僕はそのまま、部屋を出て行った。 - 千草さんみたいに、壁抜けが出来ればいいんだけど。
「お呼びですか~?」
「わっ」 - 「む? なんじゃ愚民、いたのか。まさかお主までも、巫女舞いに挑戦、などと言い出す訳ではあるまいな?」
- 「……や、やー!」
――突然、こまは大声を上げたかと思うと、千草さんのお盆に向かって両手を向けた。 - 僕は少し気になって、鏡架さんの後を追った。
「でも、幾らなんでも。本人達を無視して、そんな勝手な事をするなんて」
考えつつ、僕はそんな言葉を述べた。 - 「前から思ってたんだけどさ。親父さん、どうもこりすが僕との婚約を望んでるって、勘違いしてるんじゃないかな?」
- 僕はそのまま、しばらく千草さんの様子を見ていた。
彼女は張り切って掃除している。 - 「いや、その服は……」
「……あ、あのね。最近、あんまり着れなかったから……」
そう言って、彼女はうつむいた。 - 「じゃあ、案内してくれてありがとう、こま。ちょっと行ってくるよ」
そう言って、僕は町へと向かった。 - 「あれ? でもお兄ちゃん、千草さんの画を描いてなかった……? まだ、確か途中で……」
- 「……わかってるんだ。こまに逢わせてくれらのは、由なのに。悪気があってやったんじゃないって。ただ、少しカッとなっちゃって……」
- 「御神体、か……」
胸の奥から零れ出てくるような思いで、僕はその言葉を口にした。 - 「あ、いや。誰が置いていったのかもわからないものを御神体にするなんて、随分と思い切った事をするんだな、って思って」
- 何か思いつめたような表情をして、こりすは水面を見つめていた。
- 「むう……」
由はきょろきょろと辺りを見回していた。
「――どなたかお捜しですの?」 - でも――何でだろう。
あの時、一瞬だけ、鍛冶場の前で眩暈を覚えた時。
脳裏を掠めた影があったんだ。 - 「……19回目」
「え?」 - 「で……こまちゃんの調子、どう?」
翁は遠慮がちに尋ねた。 - 夜になるにつれて、酔いが回って来た者達もいるのだろう。
開かれた境内は、昼間とはまた違う喧騒に包まれていた。 - (……やっぱり、自信がなくなってきた)
「あ……あの、お兄様?」 - 僕は一度玄関の中に戻り、傘立てから傘を取り出すと、すぐに鏡架さんの後を追った。
- 「いっ、いや! いいよ。僕が行くからっ!」
僕は慌てて立ち上がり、素早く襖を開いた。 - 「……昔は、よく……お兄ちゃんが冷ましてくれたね」
「え?」 - それから大きく深呼吸して、僕は居間へと向かった。
僕は隣の由に問いかけた。 - 「どうせ、部屋に篭って悪巧みをしているに決まっておる。ほっとけほっとけ」と、口の中いっぱいにこりすの分を詰め込んで言っているのは、由。
- 僕は、こまへと駆け寄った。
飛び出していったこりすの事が、気にならなかった訳じゃないけど……。 - 「こまさんは怒って下さらないから。何でも受け入れて……微笑んでしまうから」
- 「…………」
僕は、何かを言おうと思って……けれど、何も思いつかずに口をつぐんだ。 - 言わなくちゃいけない事もあるだろうに。
僕はただ、口をつぐんだままで。 - (……あれ)
ふと目に止まったのは、床に乱雑に投げ捨てられていた一冊のスケッチブック。 - 「……その。結婚式の……事なんですけれど……」
言い出しにくそうに、こりすが呟いた。 - 「いや……やっぱり僕は。うん。後ででいいから」
- 「……あのさ、由。主って……」
「…………」
「……由……」 - 「でも、由……どうして嘘なんか?」
「……そ、それは……」
由は僕から視線を逸らした。 - 「……御祓い」
こりすはそう言って、大麻を振った。 - (目を覚まして、こまさん)
こりすは何度もそう呟いていた。 - 「……あれ……? こりすさん……は……?」
段々と意識がはっきりとしてきたようだ。
こまはゆっくりと、辺りを見回した。 - 「……お兄様?」
こりすは心配そうに、僕の顔を覗き込んでいた。 - 「それって、付喪神とか……そういう事ですの?」
眉をひそめて、こりすが尋ねた。 - 「…………」
思うところはあったけど。
こまは、そういう人だから。 - 「…………」
再び、お腹の音が鳴り響いた。 - 「千草さん……その、ありがとう」
何と言っていいかわからなかったが、僕は取り敢えずお礼を言った。 - 「だ、ダメっ」
――唐突だった。
こまはこりすを庇うかのように、彼女と男達との間に入った。 - 「よし。守りは任せるのじゃ」
「……守り?」 - 「……何じゃ。懐かしい感じじゃの」
ぽつりと、由がそう言った。 - 「このお屋敷、どなたがお使いになられていたと思われます?」
- 「あっ……こま、行くね」
こまは急に、気を利かせたように襖へと向かった。 - 「……お兄ちゃんは……それでいいの?」
こまが遠慮がちに、僕に尋ねた。 - 優しく、僕の手を握り締めるこまを感じた。
- 「他に呼び方はないかな?」
僕はそう尋ねた。 - こまの服装は、巫女装束に戻っていた。
病み上がりという事で大事を取って、やっぱりこまの御祓いはしばらくお休みにさせて貰っていたけれど……。 - 「……離れるって言っても、少しの間だけだもんね?」
僕は無理矢理、笑顔を作ってみせた。 - 「知ってますよ~。とっても可愛らしい女神様です~」
すると彼女は、笑顔でそう答えた。 - 「じゃあ、まだお料理があるので運んできますね~。ちょっとだけ待っててくださ~い」
- 「それとも、僕の個展の話が出たから? 急に、そんな話になっちゃったから……?」
- 居間へやってきた僕を出迎えてくれたのは……こまだった。
「あっ……! お、お兄ちゃん……!」 - 「あれ……由は、どうしたんだい?」
何とか平静を保とうと、僕は尋ねた。 - やっぱりそうだ――鏡架さんの視線の先にいるのは、こまだった。
- 「僕にきた、個展の話……君は正直、どう思った?」
「…………」
「正直にでいいんだ。頼むよ」 - 「……行ってらっしゃい。お兄様」
その笑顔に涙が浮かんでいるって、わかっていた。 - 「……明日。必ず、見送るから」
「うん、ありがとう」
「……戻るよ。おやすみ、こま」 - 「……はは。もしかしたら、ずっと目が覚めなかったりして」
- 「あの……どうもはじめまして。結乃由姫命様」
こまに向かって自己紹介しているようで、妙な気分ではあった。 - 「こまだった頃の事、覚えて……」
紫姫は皆まで言わずとも、といった様子でゆっくりとうなずいた。 - 「何か、思い当たる事でもあるのかい?」
- 「……あの娘と一緒にいてくれた事、感謝しとる」
「由……の事ですか?」
僕の問いに、彼女はうなずいた。 - 「こまの顔で……そんな事を、しない……で」
- 「ああ……ありがとう」
僕はこりすにお礼を言って、汗の染み込んだ服を着替えた。 - 彼女の言葉が、終わるか終わらないかの辺りで――
僕は、彼女の腕を掴んでいた。 - 「……だから、行って」
そう言って鏡架さんは、とん……と、僕の胸を押した。 - 「自分の事、嫌いにならないで……お兄ちゃん」
耳の奥に、そっと囁かれるように優しい声が流れ込んでくる。
ノーマル END
春野 千草
- 「ならば良い。主従の関係は、はっきりとさせねばいかんからの」
そう言って、由は納得したかのように、うんうんとうなずいた。 - ――だから。
こまがここに居てくれるなら、僕もまたここに居る。 - ……そうだ。
綺麗好きなこまは、掃除が好きだったっけ……。 - 「あ、そうじゃ」
「え?」
こまの後ろをふわふわと飛んでいた由が、振り向いて僕に尋ねた。 - 「……一人で屋敷の掃除でもしておるのかのぅ。とんでもない事になっておらなければ良いが」
- 「ほほう……なかなかではないか」
そう言っていた由の表情には、喜びと同時に少し陰りが見えたように思えた。 - ――その時、鈴の音が響いた。
- 「“鬼”とは、この国においては角を生やした怪物を指すが、大陸では……そうじゃの、この国で言う“幽霊”に当たる存在じゃ」
- 「わあ……由ちゃん、物知りなんだね」
こまは素直に感心しているようだ。 - 「どうしてですの? お兄様」
「……それは、だから……」
こりすはじっと僕を見つめていた。 - 「……いや、何でもないんだ」
- 「あっ、お兄ちゃん。ここにいたんだね」
その時、こまが嬉しそうに走ってきた。
「あ、あれっ? でも、お兄ちゃん聞いてない? 由ちゃんが教えに行ってくれるって言うから、こま……」 - 咄嗟だった。
僕は後退り、そして慌てて横合いに身を投げた。 - 「やっ……」
――あの日。
恐らくは、僕の時間が止まってしまった日。 - 「……こりす」
僕は呆気に取られたまま、傍にいたこりすに問いかけた。 - 「……なんでまた?」
とは僕も訊かなかったし、こりすも言う必要がなかったのだろう。 - 「ふふっ……こまさんは面白いですわね」
そんなこまの様子を、微笑ましそうにこりすが見やった。 - 「ねえ、由。一つ気になるんだけど」
「なんじゃ?」
「どうして由がやらないんだい? 女神なんじゃ?」 - 「でも……由。あれはいったい何だったんだい?」
前を行く由に問いかけた。 - 僕は、立っているのに何故か重い腰を上げる感覚で、二人の方へと向かった。
- 「そっ……その、君は……」
「うふふ~、千草でいいですよ」 - 「こま、こんなところで待っておっても仕方なかろう。もう屋敷に入るのじゃ」
由は暇を持て余している様子だった。 - 「今、千草さんはどちらに?」
こりすは僕の気持ちを知ってか知らずか、気持ちを切り替えるように微笑んだ。 - 「……ど、どこかお出かけ?」
「う、うん……。ちょっと……ね」 - ――僕は少し考え、
「……それでも、“屋敷”を構えてたくらいの人物だったら限定できるかもしれない。 - (……こま……)
青く澄んだキャンバスに、彼女の顔が浮かぶ。 - 「……あのですね、さっきから気になってたんですけど」
言いながら、千草さんは食い入るようにじっと僕を見つめている。 - 「お、お兄ちゃん……」
そこへ、少し遅れてこまがやってきた。 - 「ご主人様~? この方、どうして泣いてるんですか~?」
そんな倒錯の場面を見て、千草さんは不思議そうに首を捻った。 - 「その大麻を振ってみるだけでも、効果はあるんじゃないのかな? 清めの道具なんだから、それ」
ふと思い付き、僕は提案した。 - 「やってみよう? 由ちゃん。こま、頑張るから」
すると、今度はこまが由を勇気付けるように、笑顔を見せた。 - 「今更、本殿に物を置くのが不謹慎だ……何て言わないよね?」
「ん? お、おお……愚民ではないかや。驚かすでない」 - 「ほほーう。良い匂いじゃのー」
そこへ匂いに誘われたかのように、本殿に残っていた由がぱたぱたとやって来た。 - 「もう解決した問題なら、そんなに気にしなくても大丈夫なんじゃないかな?」
「……けど……」 - 誰が言い出したのか。
ちょっとだけ苦笑してしまうけど、今ではこの神社を訪れてくる人たちに、こまは『こまさま』と呼ばれている。 - 僕はとりあえず、右側の引き出しから服を取り出した。
僅かに差し込む月明かりの下で見てみると、それは…………。 - 「……それにしても、随分と遅いですわね。あの方」
僕がみんなに説明をしている間、彼女はあの部屋で着替えをしているはずだった。 - 「あ……た、多分、他人の空似じゃないかな。人違いだよ」
上手いフォローも思いつかず、僕はそう言った。 - 「確かに古いとは思ってたけど……そんなに昔からって考えると、この屋敷、逆に綺麗な形で残り過ぎてるんじゃ……」
- 「よう」
「……やあ……」
僕は肩で息をしたまま、玄関の扉を開いた。 - 「いや、違う違う。僕らは……その、勝手にここに住み着いてるんで……」
「ああ。だから?」
翁はきょとんとした顔をする。 - 「…………」
「あっ、鏡架さん」
そこへ鏡架さんがやって来た。 - 「時間を間違えてるのかもしれないね。僕、ちょっと呼びに行ってくるよ」
千草さんの様子が見ていられなくて、僕はそう言って立ち上がった。 - 「……でも、まいったな……とにかく、謝ってくるよ」
- (……あれ?)
――ふと気付くと、扉の隙間からこちらを覗いている鏡架さんの姿があった。 - ……温泉にでも浸かって、頭をすっきりさせるとしよう。
自分の部屋に戻った僕は、入浴の準備をして温泉に向かった。 - 僕はこまの部屋へと向かった。
もうじき御祓いの予約が入ってる時間になるから、今は自分の部屋で用意をしている筈だ。 - 「……ごめんね? お兄ちゃん」
「え?」 - 色々と、考えることが沢山あって――
僕はそのまま、部屋を出て行った。 - 千草さんみたいに、壁抜けが出来ればいいんだけど。
「お呼びですか~?」
「わっ」 - 「む? なんじゃ愚民、いたのか。まさかお主までも、巫女舞いに挑戦、などと言い出す訳ではあるまいな?」
- 僕は温泉に浸かりながら、辺りをきょろきょろとうかがっていた。
その姿がない事に気付き、胸を撫で下ろす。 - 「……や、やー!」
――突然、こまは大声を上げたかと思うと、千草さんのお盆に向かって両手を向けた。 - 「なんじゃあやつは。愛想のない……」
「きょ、鏡架さん、きっと照れ屋さんなんだよ。悪気があってやってる訳じゃないよ」 - 「でも、幾らなんでも。本人達を無視して、そんな勝手な事をするなんて」
考えつつ、僕はそんな言葉を述べた。 - 「前から思ってたんだけどさ。親父さん、どうもこりすが僕との婚約を望んでるって、勘違いしてるんじゃないかな?」
- 僕はそのまま、しばらく千草さんの様子を見ていた。
彼女は張り切って掃除している。 - 「いや、その服は……」
「……あ、あのね。最近、あんまり着れなかったから……」
そう言って、彼女はうつむいた。 - 「じゃあ、案内してくれてありがとう、こま。ちょっと行ってくるよ」
そう言って、僕は町へと向かった。 - 「あれ? でもお兄ちゃん、千草さんの画を描いてなかった……? まだ、確か途中で……」
- 「……わかってるんだ。こまに逢わせてくれらのは、由なのに。悪気があってやったんじゃないって。ただ、少しカッとなっちゃって……」
- 「御神体、か……」
胸の奥から零れ出てくるような思いで、僕はその言葉を口にした。 - 「あ、いや。誰が置いていったのかもわからないものを御神体にするなんて、随分と思い切った事をするんだな、って思って」
- 何か思いつめたような表情をして、こりすは水面を見つめていた。
- 「むう……」
由はきょろきょろと辺りを見回していた。
「――どなたかお捜しですの?」 - ――帰って来なかった、千草さんのご主人様って――
- 「……19回目」
「え?」 - 「で……こまちゃんの調子、どう?」
翁は遠慮がちに尋ねた。 - 夜になるにつれて、酔いが回って来た者達もいるのだろう。
開かれた境内は、昼間とはまた違う喧騒に包まれていた。 - (……やっぱり、自信がなくなってきた)
「あ……あの、お兄様?」 - 僕は一度玄関の中に戻り、傘立てから傘を取り出すと、すぐに鏡架さんの後を追った。
- 「いっ、いや! いいよ。僕が行くからっ!」
僕は慌てて立ち上がり、素早く襖を開いた。 - 「……昔は、よく……お兄ちゃんが冷ましてくれたね」
「え?」 - それから大きく深呼吸して、僕は居間へと向かった。
- 僕は隣の由に問いかけた。
- 「どうせ、部屋に篭って悪巧みをしているに決まっておる。ほっとけほっとけ」と、口の中いっぱいにこりすの分を詰め込んで言っているのは、由。
- 僕は、こまへと駆け寄った。
飛び出していったこりすの事が、気にならなかった訳じゃないけど……。 - 「こまさんは怒って下さらないから。何でも受け入れて……微笑んでしまうから」
- 「…………」
僕は、何かを言おうと思って……けれど、何も思いつかずに口をつぐんだ。 - 言わなくちゃいけない事もあるだろうに。
僕はただ、口をつぐんだままで。 - (……あれ)
ふと目に止まったのは、床に乱雑に投げ捨てられていた一冊のスケッチブック。 - 「……その。結婚式の……事なんですけれど……」
言い出しにくそうに、こりすが呟いた。 - 「いや……やっぱり僕は。うん。後ででいいから」
- 「……あのさ、由。主って……」
「…………」
「……由……」 - 「でも、由……どうして嘘なんか?」
「……そ、それは……」
由は僕から視線を逸らした。 - 「……御祓い」
こりすはそう言って、大麻を振った。 - (目を覚まして、こまさん)
こりすは何度もそう呟いていた。 - 「……あれ……? こりすさん……は……?」
段々と意識がはっきりとしてきたようだ。
こまはゆっくりと、辺りを見回した。 - 「……お兄様?」
こりすは心配そうに、僕の顔を覗き込んでいた。 - 「それって、付喪神とか……そういう事ですの?」
眉をひそめて、こりすが尋ねた。 - 「…………」
思うところはあったけど。
こまは、そういう人だから。 - 「…………」
再び、お腹の音が鳴り響いた。 - 「千草さん……その、ありがとう」
何と言っていいかわからなかったが、僕は取り敢えずお礼を言った。 - 「だ、ダメっ」
――唐突だった。
こまはこりすを庇うかのように、彼女と男達との間に入った。 - 「よし。守りは任せるのじゃ」
「……守り?」 - 「……何じゃ。懐かしい感じじゃの」
ぽつりと、由がそう言った。 - 「このお屋敷、どなたがお使いになられていたと思われます?」
- 「あっ……こま、行くね」
こまは急に、気を利かせたように襖へと向かった。 - 「……お兄ちゃんは……それでいいの?」
こまが遠慮がちに、僕に尋ねた。 - 優しく、僕の手を握り締めるこまを感じた。
- 「他に呼び方はないかな?」
僕はそう尋ねた。 - こまの服装は、巫女装束に戻っていた。
病み上がりという事で大事を取って、やっぱりこまの御祓いはしばらくお休みにさせて貰っていたけれど……。 - 「……離れるって言っても、少しの間だけだもんね?」
僕は無理矢理、笑顔を作ってみせた。 - 「知ってますよ~。とっても可愛らしい女神様です~」
すると彼女は、笑顔でそう答えた。 - 「じゃあ、まだお料理があるので運んできますね~。ちょっとだけ待っててくださ~い」
- 「それとも、僕の個展の話が出たから? 急に、そんな話になっちゃったから……?」
- 居間へやってきた僕を出迎えてくれたのは……こまだった。
「あっ……! お、お兄ちゃん……!」 - 「あれ……由は、どうしたんだい?」
何とか平静を保とうと、僕は尋ねた。 - やっぱりそうだ――鏡架さんの視線の先にいるのは、こまだった。
- 「僕にきた、個展の話……君は正直、どう思った?」
「…………」
「正直にでいいんだ。頼むよ」 - 「……ちょっと、頭を冷やしてくるよ」
そう言って、僕は立ち上がった。 - 「……明日。必ず、見送るから」
「うん、ありがとう」
「……戻るよ。おやすみ、こま」 - 「……はは。もしかしたら、ずっと目が覚めなかったりして」
「あの……どうもはじめまして。結乃由姫命様」
こまに向かって自己紹介しているようで、妙な気分ではあった。 - 「こまだった頃の事、覚えて……」
紫姫は皆まで言わずとも、といった様子でゆっくりとうなずいた。 - 「何か、思い当たる事でもあるのかい?」
- 「ご主人様~(ハート)」
――と、背中に柔らかい感触が。 - 「こまの顔で……そんな事を、しない……で」
- 「ああ……ありがとう」
僕はこりすにお礼を言って、汗の染み込んだ服を着替えた。 - 「千草さんも一緒に行かないかい? 東京へ……」
- 「くっ……!」
その真摯な瞳が、彼女の意思を伝えていた。
僕は駆け出した。 - 「自分の事、嫌いにならないで……お兄ちゃん」
耳の奥に、そっと囁かれるように優しい声が流れ込んでくる。
春野 千草 END
燕子花 こりす
- 「ならば良い。主従の関係は、はっきりとさせねばいかんからの」
そう言って、由は納得したかのように、うんうんとうなずいた。 - ――だから。
こまがここに居てくれるなら、僕もまたここに居る。 - ……そうだ。
綺麗好きなこまは、掃除が好きだったっけ……。 - 「あ、そうじゃ」
「え?」
こまの後ろをふわふわと飛んでいた由が、振り向いて僕に尋ねた。 - 「……一人で屋敷の掃除でもしておるのかのぅ。とんでもない事になっておらなければ良いが」
- 「ほほう……なかなかではないか」
そう言っていた由の表情には、喜びと同時に少し陰りが見えたように思えた。 - ――その時、鈴の音が響いた。
- 「“鬼”とは、この国においては角を生やした怪物を指すが、大陸では……そうじゃの、この国で言う“幽霊”に当たる存在じゃ」
- 「……いったい、何のお話をなさっていますの?」
その時、どことなく憤った口調で、こりすが声を発した。 - 「……こまさんですのね?」
「っ……」
ずばりと核心を言い当てられて、僕は内心の動揺を隠せなかった。 - 「なんで……あんな事を?」
- 「とはいえ、これから先、ずっとこれでは流石に……。仕方ありませんわね。わたくしが何とか致しましょう」
- 「……お兄様もご一緒されます?」
「えっ!?」
唐突に、こりすがとんでもない事を言い出した。 - 咄嗟だった。
僕は後退り、そして慌てて横合いに身を投げた。 - 「やっ……」
――あの日。
恐らくは、僕の時間が止まってしまった日。 - 「おっ……お兄様!」
呆気に取られたままの僕の耳に、こりすの心配そうな声が届いた。 - 「……なんでまた?」
「急な申し出に、僕は問いかけた。 - 「……でも、なんだか二人とも良い感じだね」
「えっ?」 - 「ねえ、由。一つ気になるんだけど」
「なんじゃ?」
「どうして由がやらないんだい? 女神なんじゃ?」 - 「でも……由。あれはいったい何だったんだい?」
前を行く由に問いかけた。 - 「座りましょう? お兄様」
そのまま動こうとしない僕を見て、こりすが言った。 - 「こっちは……燕子花こりす」
未だ動かないこりすを指して、僕はこりすを紹介した。 - 「……ただいまですわ、お二人とも」
その時、こりすが僕らの隠れている場所を隠すように、二人へと歩み寄って行った。 - 「……何だと?」
「え?」
「何だと思ったんだい?」 - 「……ど、どこかお出かけ?」
「う、うん……。ちょっと……ね」 - 「ま、そう落ち込むなよ。いつかは見つかるかもしれねーじゃん? そう焦んなくてもさ」
翁は慰めるようにそう言った。 - 「……こまさん達も、今頃はこの山の何処かにいらっしゃるんでしょうね」
そんな事を漠然と考えていたら、こりすも気になったのだろうか―― - 「ふふっ……」
「むっ。なんじゃお主っ!?」
僕を追いかけようとする由の前に、こりすが立ちはだかった。 - 「こりす……」
石段の向こうから、こりすが姿を現した。 - ぽんぽん、と僕は彼の肩を叩いて、そのまま無言で退出した。
- 「その大麻を振ってみるだけでも、効果はあるんじゃないのかな? 清めの道具なんだから、それ」
ふと思い付き、僕は提案した。 - 「こんな玄関先でとやかく言っていても仕方ないでしょう? 体も冷えてきましたし……とにかく、やってみたらどうなんですの?」
- 「今更、本殿に物を置くのが不謹慎だ……何て言わないよね?」
「ん? お、おお……愚民ではないかや。驚かすでない」 - 「しかし…どうやったら、こんなお味が出せるのかしら……素材自体の味は十二分に活かされているのに、必ず一味隠されていて……見事な調和が……」
- 「もう解決した問題なら、そんなに気にしなくても大丈夫なんじゃないかな?」
「……けど……」 - 突然のことだったけれど、こりすも事態を理解してくれているのだろう、文句一つ言わずによく手伝ってくれていた。
- 僕は左側の引き出しから、最初につかんだ服を引っ張り出した。
襖の辺りで確認すると、それは…………。 - 「……別に、嘘でも本当でも宜しいじゃありませんの」
その時、こりすがさらりと言い出した。 - 「……いったい、どういう生活を送ってこられたのかしらね。あの方」
こりすなりの気の利かせ方だったのだろうか。 - 「確かに古いとは思ってたけど……そんなに昔からって考えると、この屋敷、逆に綺麗な形で残り過ぎてるんじゃ……」
- 「よう」
「……やあ……」
僕は肩で息をしたまま、玄関の扉を開いた。 - 「いや、違う違う。僕らは……その、勝手にここに住み着いてるんで……」
「ああ。だから?」
翁はきょとんとした顔をする。 - 「紫縁祭……」
――僕の背後から届いた、歌うように涼やかな声。 - 「時間を間違えてるのかもしれないね。僕、ちょっと呼びに行ってくるよ」
千草さんの様子が見ていられなくて、僕はそう言って立ち上がった。 - 「……でも、まいったな……とにかく、謝ってくるよ」
- 「…………」
こりすはじっと僕を見ていた。
僕が何を考えているのか、お見通しだと言わんばかりに。 - その日は、そんな風にして夜が更けていった。
- 「しかし、本当……こりすは周りをよく見てるね」
多分、僕が鈍感っていうのもあるだろうけど。 - 「あら。紫縁祭りって血祭りの事でしたの?」
その時、急に扉のところに姿をみせたこりすが、しれっと言った。 - 色々と、考えることが沢山あって――
僕はそのまま、部屋を出て行った。 - 千草さんみたいに、壁抜けが出来ればいいんだけど。
「お呼びですか~?」
「わっ」 - 「む? なんじゃ愚民、いたのか。まさかお主までも、巫女舞いに挑戦、などと言い出す訳ではあるまいな?」
- 「――式神ですわ」
落ち着き払ってこりすが呟いた。 - 「なんじゃあやつは。愛想のない……」
「きょ、鏡架さん、きっと照れ屋さんなんだよ。悪気があってやってる訳じゃないよ」 - 「じゃあもしかして、翁の診療所に担ぎ込まれた黒ずくめの男たちって……」
- 「どうかな。もし本当に、そんな強引に僕と結婚なんかさせたら、こりすに嫌われるって……あの親父さんなら、考えるんじゃないかな?」
- 「あら、お兄様。ご休憩ですの?」
一呼吸入れようと居間へやってきた僕を、こりすがにこやかに出迎えてくれた。 - 「いや、その服は……」
「……あ、あのね。最近、あんまり着れなかったから……」
そう言って、彼女はうつむいた。 - 「じゃあ、案内してくれてありがとう、こま。ちょっと行ってくるよ」
そう言って、僕は町へと向かった。 - 「あれ? でもお兄ちゃん、千草さんの画を描いてなかった……? まだ、確か途中で……」
- 「……わかってるんだ。こまに逢わせてくれらのは、由なのに。悪気があってやったんじゃないって。ただ、少しカッとなっちゃって……」
- 「御神体、か……」
胸の奥から零れ出てくるような思いで、僕はその言葉を口にした。 - 「あ、いや。誰が置いていったのかもわからないものを御神体にするなんて、随分と思い切った事をするんだな、って思って」
- 「あの時、お兄様をお守りする事ができなかった……」
滝の瀑音に掻き消されたけれど、こりすが何かを呟いた。 - 「むう……」
由はきょろきょろと辺りを見回していた。
「――どなたかお捜しですの?」 - でも――何でだろう。
あの時、一瞬だけ、鍛冶場の前で眩暈を覚えた時。
脳裏を掠めた影があったんだ。 - 「巫女舞って確か……天鈿女命の歌舞が起源でしたわね」
「天鈿女命?」 - 「ああ。そういやさっき、出店の辺りでこりすちゃん見かけたぜ」
翁は思い出したように言った。 - 「何も、こんな日にまで……」
こりすの不快そうな声が、風にさらわれていく。 - 例えば三歳児が描いた画を、母親が見たら……。
それはきっと、“良い画”になるんだろう。 - 僕は一度玄関の中に戻り、傘立てから傘を取り出すと、すぐに鏡架さんの後を追った。
- 「いっ、いや! いいよ。僕が行くからっ!」
僕は慌てて立ち上がり、素早く襖を開いた。 - 「……昔は、よく……お兄ちゃんが冷ましてくれたね」
「え?」 - それから大きく深呼吸して、僕は居間へと向かった。
- 僕は隣の由に問いかけた。
- 「……じゃあ、みんなは先に食べてなよ。僕、ちょっとこりすを呼びに行ってくるからさ」
僕はそう言って、居間を後にした。 - 僕はこりすを追った。
こまの事が、気にならなかった訳じゃないけど―― - 「……辛いのは、あんな事を言ったわたくしを怒っているのが、こまさんではなく……」
- 「……こまさんを見ておられなくて……宜しいんですの?」
気遣うような言い方で、こりすが訊いた。 - 「……いや。僕の方こそごめん。気遣ってくれてるって、わかってるのに」
- ――その眼差しに、僕が何を言えただろう。
- (……あれ)
ふと目に止まったのは、床に乱雑に投げ捨てられていた一冊のスケッチブック。 - 「……行こう」
僕はもう一度、こりすの手を引っ張った。 - 「……い、いいですわよ……お兄様。一緒に……入りましょう……?」
「え。こりす……」 - 「……あのさ、由。主って……」
「…………」
「……由……」 - 「――まったくですわ」
「こりす……」
そこへ、温泉から上がったらしきこりすが、部屋に入ってきた。 - 「……そうかな。僕は……可愛いと思うんだけど……」
僕は、思った事を率直に言った。 - (目を覚まして、こまさん)
こりすは何度もそう呟いていた。 - 「……あれ……? こりすさん……は……?」
段々と意識がはっきりとしてきたようだ。
こまはゆっくりと、辺りを見回した。 - 「……お兄様?」
こりすは心配そうに、僕の顔を覗き込んでいた。 - 「それって、付喪神とか……そういう事ですの?」
眉をひそめて、こりすが尋ねた。 - 「何故……庇いますの?」
ややあって、こりすが問いかけた。 - 「おっ、お兄様。お兄様も何とかおっしゃってください。わたくしじゃありませんのに、みなさんっ……!」
- 「……はいはい。まあいいですわ・じゃあ、おチビちゃん。アナタがよそって差し上げなさいな。そして、すぐにこまさんの許へお戻りなさい」
- 「……ふふっ。あはははっ」
こりすは可笑しくて仕方ない、とばかりに微笑んだ。 - 「……こりす? どうかしたのかい?」
「え? ……何がですの?」 - 「……何じゃ。懐かしい感じじゃの」
ぽつりと、由がそう言った。 - 「……っ……と、お兄様の眼の……事なんですけれど」
- 「こりす。昨日、僕に何を訊こうとしてたんだい?」
「お、お兄様……」 - 「でも、それで宜しいのかもしれませんわね? わっ、忘れましょう? こんなお話。ごめんなさい、お兄様」
こりすは、はぐらかすようにそう言った。 - そこには、遠慮がちに僕の手に指先を重ねる、こりすの姿があった。
- 「他に呼び方はないかな?」
僕はそう尋ねた。 - こまの服装は、巫女装束に戻っていた。
病み上がりという事で大事を取って、やっぱりこまの御祓いはしばらくお休みにさせて貰っていたけれど……。 - 「……離れるって言っても、少しの間だけだもんね?」
僕は無理矢理、笑顔を作ってみせた。 - 「知ってますよ~。とっても可愛らしい女神様です~」
すると彼女は、笑顔でそう答えた。 - 「――あら。遂にアナタまで参戦ですの?」
「なっ、なんじゃお主っ! いつからおったっ!」 - 「それとも、僕の個展の話が出たから? 急に、そんな話になっちゃったから……?」
- 「……お兄様」
そこに襖が開いて、こりすが姿を見せた。 - 「あれ……由は、どうしたんだい?」
何とか平静を保とうと、僕は尋ねた。 - やっぱりそうだ――鏡架さんの視線の先にいるのは、こまだった。
- 「全一はどうして、こりすに仕えているの?」
- 「……はい」
「必ず……戻ってくるから」 - 「……明日。必ず、見送るから」
「うん、ありがとう」
「……戻るよ。おやすみ、こま」 - 「じゃあ……起こしてもらおうかな」
- 「……はは。もしかしたら、ずっと目が覚めなかったりして」
- 「……お兄様」
こりすが小声で僕に囁いた。 - 「じゃあ……こりすの事も?」
- 「何か、思い当たる事でもあるのかい?」
- 「……あの娘と一緒にいてくれた事、感謝しとる」
「由……の事ですか?」
僕の問いに、彼女はうなずいた。 - 「こり……す……」
- ――でも、舌はまだ痺れていた。
「あっ……う」
「え? お兄様、動けませんの?」 - 「くっ……!」
その真摯な瞳が、彼女の意思を伝えていた。
僕は駆け出した。 - 「おにぃ……さま……」
庭にへたり込んだこりすが、わななく唇で僕を呼んだ。
燕子花 こりす END
麻生 こま
- 「ならば良い。主従の関係は、はっきりとさせねばいかんからの」
そう言って、由は納得したかのように、うんうんとうなずいた。 - ――どうしてだろう?
どうしてお兄ちゃん、そんなに心配そうなお顔をしてるの? - ――なんだろう。
いつもと違う、って……こま、わかってるのに。 - にこにこと手を振って、こまは石段の下に姿を消した。
- 「もしや……こまの事を心配して、わらわ達を追いかけてきたのではないかや?」
- 「ごめんね、お兄ちゃん……本当に。迷惑ばっかりかけて」
何度も何度も繰り返していた言葉を、こまはもう一度繰り返した。 - 「……おかえり、こま」
ごく自然に、その言葉が口をついて出た。 - 「えっ……由ちゃんて、鬼さんなの?」
「阿呆かっ。こんなに愛くるしい鬼が何処におるっ!?」 - 「わあ……由ちゃん、物知りなんだね」
こまは素直に感心しているようだ。 - 「どうしてですの? お兄様」
「……それは、だから……」
こりすはじっと僕を見つめていた。 - 「……いや、何でもないんだ」
- 「あっ、お兄ちゃん。ここにいたんだね」
その時、こまが嬉しそうに走ってきた。 - 「あ、あれっ? でも、お兄ちゃん聞いてない? 由ちゃんが教えに行ってくれるって言うから、こま……」
- 「こま……!」
――無我夢中だった。
僕は咄嗟に、こまを突き飛ばしていた。 - あれ……前にも、こんな事があったような気がする。
……いつだったっけ? - 「……こりす」
僕は呆気に取られたまま、傍にいたこりすに問いかけた。 - 「……なんでまた?」
とは僕も訊かなかったし、こりすも言う必要がなかったのだろう。 - 「ふふっ……こまさんは面白いですわね」
そんなこまの様子を、微笑ましそうにこりすが見やった。 - 「がんばろうね? お兄ちゃん」
- ――前を行く由の背中を見つめながら、こまは思い出していた。
- 僕は、立っているのに何故か重い腰を上げる感覚で、二人の方へと向かった。
- 「そっ……その、君は……」
「うふふ~、千草でいいですよ」 - 「こま、こんなところで待っておっても仕方なかろう。もう屋敷に入るのじゃ」
由は暇を持て余している様子だった。 - 「今、千草さんはどちらに?」
こりすは僕の気持ちを知ってか知らずか、気持ちを切り替えるように微笑んだ。 - 「……ごめん。こま」
「え?」
唐突にそんな事を言った僕に驚いて、こまは不思議そうな表情を見せた。 - 「ま、そう落ち込むなよ。いつかは見つかるかもしれねーじゃん? そう焦んなくてもさ」
翁は慰めるようにそう言った。 - (……こま……)
青く澄んだキャンバスに、彼女の顔が浮かぶ。 - 「だっ……だめっ!」
「こっ、こまっ!?」
その時、由の前にこまが立ちはだかった。 - 「お、お兄ちゃん……」
そこへ、少し遅れてこまがやってきた。 - ぽんぽん、と僕は彼の肩を叩いて、そのまま無言で退出した。
- 「その大麻を振ってみるだけでも、効果はあるんじゃないのかな? 清めの道具なんだから、それ」
ふと思い付き、僕は提案した。 - 「やってみよう? 由ちゃん。こま、頑張るから」
すると、今度はこまが由を勇気付けるように、笑顔を見せた。 - 「今更、本殿に物を置くのが不謹慎だ……何て言わないよね?」
「ん? お、おお……愚民ではないかや。驚かすでない」 - 「ほほーう。良い匂いじゃのー」
そこへ匂いに誘われたかのように、本殿に残っていた由がぱたぱたとやって来た。 - 「……わかってるよ。彼氏と上手くいってないとか……そういう話だったんだよね?」
「え? な、なんで……」 - 誰が言い出したのか。
ちょっとだけ苦笑してしまうけど、今ではこの神社を訪れてくる人たちに、こまは『こまさま』と呼ばれている。 - 僕はとりあえず、右側の引き出しから服を取り出した。
僅かに差し込む月明かりの下で見てみると、それは…………。 - 「……それにしても、随分と遅いですわね。あの方」
僕がみんなに説明をしている間、彼女はあの部屋で着替えをしているはずだった。 - 「あ……た、多分、他人の空似じゃないかな。人違いだよ」
上手いフォローも思いつかず、僕はそう言った。 - 「確かに古いとは思ってたけど……そんなに昔からって考えると、この屋敷、逆に綺麗な形で残り過ぎてるんじゃ……」
- 「よう」
「……やあ……」
僕は肩で息をしたまま、玄関の扉を開いた。 - 「えっ。ここでお祭り?」
きょとんとした、予想通りといえば予想通りの反応が返って来たのは、台所へと向かうこまを見つけた時。 - 「…………」
「あっ、鏡架さん」
そこへ鏡架さんがやって来た。 - 「こっ……こま、もう一回呼びに行ってくるねっ?」
いたたまれなくなったのだろうか、こまは立ち上がった。 - 「じゃあ、こま……鏡架さんに謝ってくるね」
- (……あれ?)
――ふと気付くと、扉の隙間からこちらを覗いている鏡架さんの姿があった。 - その日は、そんな風にして夜が更けていった。
- 僕はこまの部屋へと向かった。
もうじき御祓いの予約が入ってる時間になるから、今は自分の部屋で用意をしている筈だ。 - 「……ごめんね? お兄ちゃん」
「え?」 - 「……なんつーか、もしかしたら……」
翁の呟きが耳に入り、僕は振り向いた。 - 「こま……いいかい?」
僕は声をかけながら、扉を開いた。 - 「……でもやっぱり、お兄ちゃんにはかなわないなぁ……」
「え?」 - 「……や、やー!」
――突然、こまは大声を上げたかと思うと、千草さんのお盆に向かって両手を向けた。 - 「なんじゃあやつは。愛想のない……」
「きょ、鏡架さん、きっと照れ屋さんなんだよ。悪気があってやってる訳じゃないよ」 - 「でも、幾らなんでも。本人達を無視して、そんな勝手な事をするなんて」
考えつつ、僕はそんな言葉を述べた。 - 「前から思ってたんだけどさ。親父さん、どうもこりすが僕との婚約を望んでるって、勘違いしてるんじゃないかな?」
- 僕はそのまま、しばらく千草さんの様子を見ていた。
彼女は張り切って掃除している。 - 「何だか……元気がないよ? どうかしたのかい?」
「えっ? そ、そんな事ないよ。こま、いつも通りだよ」 - 「あっ、こまさまだー」
橋を越えて公園に差しかかった時、こまの周りに集まってくる子供たちがいた。 - ――僕が描くものは、きっと、この町に来た時から決まっていたから。
少しだけ遠回りをして、その事に気付く事ができた。 - 「……なんで」
――心配なのは、彼女の方だったのに。
彼女が違う誰かの心配をする。 - 「御神体、か……」
胸の奥から零れ出てくるような思いで、僕はその言葉を口にした。 - 「あ、いや。誰が置いていったのかもわからないものを御神体にするなんて、随分と思い切った事をするんだな、って思って」
- 何か思いつめたような表情をして、こりすは水面を見つめていた。
- 僕はこまの姿を探しながら、境内を歩いていた。
- でも――何でだろう。
あの時、一瞬だけ、鍛冶場の前で眩暈を覚えた時。
脳裏を掠めた影があったんだ。 - 「……19回目」
「え?」 - 「で……こまちゃんの調子、どう?」
翁は遠慮がちに尋ねた。 - 夜になるにつれて、酔いが回って来た者達もいるのだろう。
開かれた境内は、昼間とはまた違う喧騒に包まれていた。 - (……やっぱり、自信がなくなってきた)
「あ……あの、お兄様?」 - 「あっ……」
僕の後を追ってきたらしきこまは、同じように鏡架さんが傘を指してない事に気付いたようだ。 - 「いいって、そんな……」
「……でも……」
「こんな時くらい、僕がやるから。すぐに戻ってくるから、ちょっとだけ待ってて」 - 「ね、お兄ちゃん……約束、覚えてる?」
「約束?」 - (……あれ?)
しかし、こまはしばらく進むと急に立ち止まった。 - そう言った矢先、こまが戻ってきた。
- 「どうせ、部屋に篭って悪巧みをしているに決まっておる。ほっとけほっとけ」と、口の中いっぱいにこりすの分を詰め込んで言っているのは、由。
- 僕は、こまへと駆け寄った。
飛び出していったこりすの事が、気にならなかった訳じゃないけど……。 - 「こまさんは怒って下さらないから。何でも受け入れて……微笑んでしまうから」
- 「……こまさんを見ておられなくて……宜しいんですの?」
気遣うような言い方で、こりすが訊いた。 - 言わなくちゃいけない事もあるだろうに。
僕はただ、口をつぐんだままで。 - (……あれ)
ふと目に止まったのは、床に乱雑に投げ捨てられていた一冊のスケッチブック。 - 「……その。結婚式の……事なんですけれど……」
言い出しにくそうに、こりすが呟いた。 - 「いや……やっぱり僕は。うん。後ででいいから」
- 「……あのさ、由。主って……」
「…………」
「……由……」 - 「でも、由……どうして嘘なんか?」
「……そ、それは……」
由は僕から視線を逸らした。 - 「……御祓い」
こりすはそう言って、大麻を振った。 - (目を覚まして、こまさん)
こりすは何度もそう呟いていた。 - 「……あれ……? こりすさん……は……?」
段々と意識がはっきりとしてきたようだ。
こまはゆっくりと、辺りを見回した。 - 「……お兄様?」
こりすは心配そうに、僕の顔を覗き込んでいた。 - 「じゃあ、こまは……僕が鏡架さんを連れてきたせいで……?」
「お兄様……」 - 「…………」
思うところはあったけど。
こまは、そういう人だから。 - 「…………」
再び、お腹の音が鳴り響いた。 - 「千草さん……その、ありがとう」
何と言っていいかわからなかったが、僕は取り敢えずお礼を言った。 - 「だ、ダメっ」
――唐突だった。
こまはこりすを庇うかのように、彼女と男達との間に入った。 - 「よし。守りは任せるのじゃ」
「……守り?」 - 「…………」
「ん? なんじゃ、こま。愚民にまだ用があったのかや? 呼んでくるかの?」 - 「このお屋敷、どなたがお使いになられていたと思われます?」
- 「あっ……こま、行くね」
こまは急に、気を利かせたように襖へと向かった。 - 「……お兄ちゃんは……それでいいの?」
こまが遠慮がちに、僕に尋ねた。 - 優しく、僕の手を握り締めるこまを感じた。
- 「他に呼び方はないかな?」
僕はそう尋ねた。 - 「……こま」
「なぁに?」
笑顔で僕を見上げるこまに、一瞬、口篭った。 - 「じゃあ、こまも一緒に……」
そして、それが僕の一言だった。
自然と、本音が口を滑って出ていた。 - 「知ってますよ~。とっても可愛らしい女神様です~」
すると彼女は、笑顔でそう答えた。 - 「じゃあ、まだお料理があるので運んできますね~。ちょっとだけ待っててくださ~い」
- 「……お兄ちゃん、今日までありがとう」
- 居間へやってきた僕を出迎えてくれたのは……こまだった。
「あっ……! お、お兄ちゃん……!」 - 「その服……」
「あっ……気付いてくれたんだ」
こまが頬を染めて、はにかんだ。 - やっぱりそうだ――鏡架さんの視線の先にいるのは、こまだった。
- 「僕にきた、個展の話……君は正直、どう思った?」
「…………」
「正直にでいいんだ。頼むよ」 - 「……行ってらっしゃい。お兄様」
その笑顔に涙が浮かんでいるって、わかっていた。 - 「もう少し、話をしてても……いいかな」
「…………」
「……駄目かい?」 - 「それは違うよ!」
知らぬ間に、僕は叫んでいた。 - 「……こまは……こまは、辛くないのかい?」
- 「……はは。もしかしたら、ずっと目が覚めなかったりして」
- 「あの……どうもはじめまして。結乃由姫命様」
こまに向かって自己紹介しているようで、妙な気分ではあった。 - 「こまだった頃の事、覚えて……」
紫姫は皆まで言わずとも、といった様子でゆっくりとうなずいた。 - 「何か、思い当たる事でもあるのかい?」
- 「……あの娘と一緒にいてくれた事、感謝しとる」
「由……の事ですか?」
僕の問いに、彼女はうなずいた。 - 「こまの顔で……そんな事を、しない……で」
- 「ああ……ありがとう」
僕はこりすにお礼を言って、汗の染み込んだ服を着替えた。 - 「くっ……!」
その真摯な瞳が、彼女の意思を伝えていた。
僕は駆け出した。 - 「自分の事、嫌いにならないで……お兄ちゃん」
耳の奥に、そっと囁かれるように優しい声が流れ込んでくる。
麻生 こま END